インドの「二元論哲学」を読む - 宮元啓一

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Add: zypacyde75 - Date: 2020-12-10 05:37:17 - Views: 1011 - Clicks: 7836

『インドの「多元論哲学」を読む プラシャスタパーダ『パダールタダルマ・サングラハ』 春秋社 (シリーズ・インド哲学への招待) 『ヴァイシェーシカ・スートラ 古代インドの分析主義的実在論哲学』臨川書店 ; 論文. 自己と自我の違いが説かれるようになると、この峻別の徹底こそが悟りをもたらすものであるとする修行論が展開してきました。 彼らが目標としていたのは、何にも依存しない”絶対的幸福”を自らで実現することであり、何かに依存した”相対的幸福”というものは眼中にありませんでした。(初期の仏教にもこの傾向が色濃く残されています。) 哲学の結論から、自己が世界に依存することなく「ただ一人存在している(独存)」ことが絶対的幸福であり、悟りであるとされました。 (世界と全く関係なく自己が存在するとなれば、あらゆる条件付けから外れるので、どんな苦しみからも解放されると考えた。) インドでは哲学は宗教と不可分ですので、哲学で導き出せることは自分の人生の目標になります。 いくら哲学で自己と自我が異なることがわかっても、現実において同一視しては意味がありません。 ですから、彼らは我が身をかけて、自己と自我を切り離す実践(正確に言えば最初から関係していなかったことに気づくこと)を行うようになったのです。 苦行や瞑想といったインド独特の実践形態はこの哲学に支えられているのです。 例えば、仏教とインド哲学は違うと言われますが、五蘊非我(無我)の教えは伝統的なインドの教えと合致していると解釈することが可能です。 お釈迦さんが、五蘊(色・受・想・行・識)という自我(=心身)に属する世界内のことを指して、私(自己)ではないと否定形で言い続けたのは、理にかなっているということになります。 (そして、世界外のことに関しては沈黙を保ったというのが初期の仏教の特色です。). インドの「一元論哲学」を読む シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待)/宮元 啓一(哲学・思想・宗教・心理) - 梵我一如の伝統的な流出論的一元論から流出論を排除し、独自の不二一元論哲学を樹立したシャンカラ。. ヤージュニャヴァルキヤに端を発するインド正統派自己論。 簡単示すと右図にあるように、世界との関連外にある「自己(self)」と、世界の関連内にある「自我(ego)」の峻別が必要になります。 最初期は自己は認識主体であり、認識対象にはなりえない、というシンプルなものでしたが、時代が経るにつれて学派が入り乱れて様々な説を提出しました。 前回書いたように、インド哲学はヴェーダ聖典が絶対的に正しい、という前提を元に構築されたものです。 聖典が首尾一貫していればよいのですが、中身を見てみれば矛盾のオンパレードでした。 哲学者たちはそれになんとか整合性をつけようとがんばって、様々な哲学を打ち出します。 その際に、特に問題になったものが、流出論と自己論でした。. 3 形態: viii, 194p ; 20cm 著者名:. もともと、流出論的一元論はインドの最も歴史のある正統派のヴェーダーンタ学派が提唱していました。 しかし、当時インド哲学界では、二元論のサーンキヤ学派や、自己も世界も存在しないとする仏教哲学が最盛期を迎えていました。 インドの歴史でヴェーダ聖典の正当性を謳ってきたヴェーダーンタ学派は、これまでは権威のはずであった聖典が、逆に自らの哲学を縛る重荷になっていました。 そんな中、彗星の如く現れたのがインド最高の哲学者と評されるシャンカラでした。 彼の哲学は「不二一元論」と呼ばれて、再び一元論を復活させたのです。(現代においても最も勢力を持っている学派です) 不二一元論はアドヴァイタ(非二元)とも言われます。 「不二」とは、二つ目のものがないという意味です。 シャンカラによれば、世界内の現象世界は幻影(マーヤー)であり、本当の意味では「自己=ブラフマン(梵)」一つのものしか存在しない、といいます。 図のように、世界を幻影とすることで、これまでの流出論的世界観を「無明」の産物と一刀両断し、徹底的な自己=ブラフマン一元論をとりました。 彼の教説の骨子は、仏教とサーンキヤ学派から借用してきた理論が多く見られます。 仏教からは真俗二諦論や、現象世界を否定する論理などを、 サーンキヤ学派からは、世界外の自己と現象世界における自我を峻別する理論を用いました。 仏教とサーンキヤ学派の理論を上手く縫い合わせることによって、シャンカラは「世界幻影論=不二一元論」を完成させました。 つまり、これまでのヴェーダーンタ学派がいう流出論的一元論の、「世界流出論」を幻影とすることによって、自己は世界外にあるという伝統的な一元論をまもったのです。 これにより、聖典の中で矛盾があった記述もシャンカラが見事に捌き、初めて聖典の一貫した解説がなされるようになりました。. インドの「二元論哲学」を読む : イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 / イーシュヴァラクリシュナ原著 ; 宮元啓一著 フォーマット: 図書 タイトルのヨミ:. インドの「二元論哲学」を読む イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 - 宮元啓一/著 - 本の購入はオンライン書店e-honでどうぞ。書店受取なら、完全送料無料で、カード番号の入力も不要!お手軽なうえに、個別梱包で届くので安心です。.

【tsutaya オンラインショッピング】インドの「二元論哲学」を読む/宮元啓一 tポイントが使える・貯まるtsutaya/ツタヤの通販. デカルトとは全く異なる独自の二元論を展開し、漱石もあこがれたと言われるサーンキヤ哲学。 その奥義に迫る、シリーズ第三弾。 インドの「二元論哲学」を読む / 宮元 啓一【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア. 画像 インドの「一元論哲学」を読む ―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待) 宮元 啓一 春秋社by G-Tools. インド哲学者の宮元啓一氏は、シャンカラ(不二一元論の始祖、8世紀)を解説する著書の中で、次の様に書いています。 “シャンカラは、祭祀や修行(念想、ヨーガも含む)は行為(業)であり、業は輪廻をもたらすものであるからといって、それらを. ^ 宮元啓一は『インドの「二元論哲学」を読む』で、音声などは知覚器官にとって、捉えるべき対象として端的にそこにあるものであり、「タンマートラ」の訳は「微細な要素」「素粒子」ではなく「五つの端的なるもの」だと述べている。 ^ 寂静、寂滅.

インドの「二元論哲学」を読む : イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 イーシュヴァラクリシュナ原著 ; 宮元啓一著. 今回は「自己」を中心に見ていきます。 インドでは「自己」についてどのように考えていたのか。 そして哲学と瞑想という実践との関連とはどのようなものだったのでしょうか 仏教との関連で永井均さんの〈私〉の哲学を何回か取り上げました。 そこでは〈私〉という一見わかりにくそうな議論が続いていますが、インド哲学の視点から見ると、同じとはいかないまでも参考になる議論があります。 特に「自己」についての話は、仏教を含めたインドの思想一般を見る際にとても重要です。 今回は詳細については記述しませんが、ざっくりと見ていきたいと思います。. デカルトとは全く異なる独自の二元論を展開し、漱石もあこがれたと言われるサーンキヤ哲学。その奥義に迫る、シリーズ第三弾。 著者略歴 (「book著者紹介情報」より) 宮元 啓一 1948年生まれ。東京大学文学部卒。博士(文学)。インド哲学専攻。. インドの「二元論哲学」を読む - イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 - 宮元啓一 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。. Amazonで宮元 啓一のインド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)。アマゾンならポイント還元本が多数。宮元 啓一作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. 状態ランクについてこの商品の状態ランクは、B 中古品としては一般的な状態の商品です。当店の状態ランクの意味は、初めての方へ、をご確認ください。送料全国一律310円です。※配送方法は、当社指定のみになります。※同一商品でも発送元店舗が異なるため、送料が異なる場合がござい. インドの「二元論哲学」を読む ― イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 宮元啓一 著 読んだ本 インド思想 サーンキヤ 学派の代表的教典「 サーンキヤ ・カーリカー」の日本語版解説書です。.

そこで名乗りを挙げたのがサーンキヤ学派が打ち出した哲学です。 彼らは、「一元論で考えるからダメなのであって、二元論で考えちゃえば話は早い」としました。 *実際には流出した世界の内容が事細かに示されているのですが、ここでは省略します。 この哲学は、自己と根本原質の二元論をとります。 サーンキヤ学派は、世界の外にいる自己が、世界の原因である根本原質と結びつくことによって、世界の流出が起きるとしました。 その時、世界は3種類の性質原理によって成り立っていて、それらの混合比率で、多様な世界を表すとしました。 つまり、サーンキヤ哲学は一元論を捨てることによって、流出論と自己論を両立したのです。. 宮元啓一: 宮元啓一: 宮元啓一 : DASAPADARTHI ─An Ancient Indian Literature of Thoroughly Metaphysical Realism─ 勝宗十句義論: インドの「二元論哲学」を読む―イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシ. Amazonで宮元 啓一のインドの「二元論哲学」を読む―イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 (シリーズ・インド哲学への招待)。アマゾンならポイント還元本が多数。宮元 啓一作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. インドの「多元論哲学」を読む : プラシャスタパーダ『パダールタダルマ・サングラハ』 フォーマット: 図書 責任表示: プラシャスタパーダ原著 ; 宮元啓一著 言語: 日本語 出版情報: 東京 : 春秋社,. 5 形態: vi, 202p ; 20cm 著者名: 宮元啓一先生の掲示板によれば、インド哲学者の宮元啓一先生の本が、今年の前半に五冊でるそうです。インド哲学五部作ということだそうです。2月の上旬に『インド人の考えたこと----インド哲学思想史講義』3月には『インドの「一元論哲学」を読む----シャンカラ『ウパデーシ. CiNii>宮元啓一; INBUDS>宮元啓一. 名前: 宮元 啓一.

インドの「二元論哲学」を読む―イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 (シリーズ・インド哲学への招待)の感想・レビュー一覧です。. 上村, 勝彦, 宮元, 啓一(1948-) 春秋社 6 図書 インドの「一元論哲学」を読む : シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇. インドの「二元論哲学」を読む - 宮元啓一 See full list on buddhismare.

インドの「二元論哲学」を読む : イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 フォーマット: 図書 責任表示: イーシュヴァラクリシュナ原著 ; 宮元啓一著 言語: 日本語 出版情報: 東京 : 春秋社,. インド哲学専攻。現在、國學院大学文学部(哲学科)教授。. インドの「二元論哲学」を読む : イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 / イーシュヴァラクリシュナ原著 ; 宮元啓一著 Format: Book Reading of Title: インド ノ ニゲンロン テツガク オ ヨム : イーシュヴァラクリシュナ サーンキヤ カーリカー. 4 シリーズインド哲学への招待 所蔵館71館. 宮元啓一 インドの「二元論哲学」を読む イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 シリーズ・インド哲学への招待 : 宮元啓一 | HMV&BOOKS online. インドでは紀元前にはすでに、自己についての考察をはじめていました。 そのなかで、重要なことは自己(self)と心身をまとめている自我(ego)の明確な区別です。 この区別がついていないことが迷妄の根源であり、何よりも最初に峻別すべきであるとします。 インドでは”私”と言ったときには、二種類の”私”が立てられます。 表に示されているように、自己の定義は、認識主体であり、認識対象にはならないことです。 反対に、心と身体である自我は認識対象であるため、認識主体と混同してはならないとされます。 この2つを私たちは日常的に混同してつかっています。 例えば、「私は歩く」とか「私は悲しい」という場合、歩くのは「身体」であり、悲しいのは「心」です。 しかし、「私の身体」とか「私の心」という場合の〈私〉は心身とは別のものとして扱っています。 この違いを私たちは日常生活であまり意識せずに使っています。 認識できるかどうか、ということで考えてみると、 前者の場合、歩いているときの身体の動きや悲しい時の心の動きを認識することはできるでしょう(粗雑な感覚か微細な感覚の差異はあれど)。 反対に後者の場合の「心身と異なる〈私〉」は、前者の「心身としての私」を認識する主体ですから、絶対に認識することはできません。 認識できる、と言うとその瞬間に認識対象になるため、「それを認識した認識」、「認識した認識の認識」と無限遡行にはまり込みます。 ここから認識主体は認識対象でないが故に、認識できないという帰結になります。 ですから、認識対象にならない主体を、議論のテーブルの上に”そのまま”乗せることは原理的に不可能です(まず客観的に実在するという形式にのらない)ので、証明することができません。 ここから、自己は世界という認識できるものの関連外にあるとして、世界の中にある自我(=心身)とは区別されるべきだとされます。 この自己論をインドで最初に打ち立てたのはヤージュニャヴァルキヤ(紀元前750~前700年頃)という人物です。 自己は世界の外にあるものというインド自己論の基礎を作りました。 そこから、インド哲学はこの自己論を発展させた哲学、二元論(サーンキヤ哲学が代表)やら一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタが代表)やらを生み出していきました。 ちなみに、永井均さんの、「世界にたくさんある私たちの中で、ど.

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『インドの「一元論哲学」を読む シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー 散文篇』 春秋社 『インドの「二元論哲学」を読む イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 春秋社 (シリーズ・インド哲学への招待). 4 形態: vi, 193p ; 20cm 著者名:. 著者「宮元啓一」のおすすめランキングです。宮元啓一のおすすめランキング、人気・レビュー数ランキング、新刊情報、Kindleストア等の電子書籍の対応状況をチェック! プロフィール:1948年生まれ。東京大学文学部卒。博士(文学)。インド哲学専. インドの「二元論哲学」を読む : イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 イーシュヴァラクリシュナ原著 ; 宮元啓一著 (シリーズインド哲学への招待) 春秋社,. 厳密な二元論であり、世界はプルシャの観照を契機に、プラクリティから展開して生じると考えた。 サーンキヤ学、あるいはサーンキヤとも。またSāṅkhya(サーンキヤ)は「数え上げる」「考え合わせる」という意味で、数論派、数論学派とも 。.

インドの「多元論哲学」を読む プラシャスタパーダ『パダールタダルマ・サングラハ』 (シリーズ・インド哲学への招待)/宮元 啓一(哲学・思想・宗教・心理) - 世界は言語空間であり、ことばには必ずそれに対応する実在があるとするヴァイシェーシカ学派。. 現代で真理探求は格好の批判の的になりますが、インドでは西洋にはない伝統として瞑想という身体実践があります。 言葉による論理を最重要視した西洋は広範囲の人々に対して通じる理屈を編み出してきました。 反対に、インドでは論理学があるものの、内容は西洋のそれとは趣を異にしています。 (ギリシャは演繹的でインドは帰納的であると指摘している人もいます。インド人の論理学―問答法から帰納法へ) もともと、瞑想の中での神秘体験を書き記したもの(ヴェーダ聖典)をベースに哲学を作り上げてきたので、結論ありきの哲学です。 例えば「梵我一如」なんかはシャーンディリヤという人が、聖典のなかで少し言ったことを後世になってあれこれ理屈をつけだしたのが最初です。 だからインドでは聖者が「深い瞑想状態」に入って確認したことも結論として認めます。(自己は対象にならない、と言っておきながら、「熟達したヨーガ行者は自己をみることができる」と言い出したりする) これは彼らが知的に西洋より劣っていたということではなくて、目の前の敵を倒すためには手段を選ばないという決意の裏返しでもあります。 夜道に山賊が現れたら、「人間としての矜持を守って論理時な対話に望む」なんて行動をとるやつはいないでしょう。 何が何でもやられまいとして、周りにある木の棒や石ころなどを使ってでも、相手を倒しにかかるに違いありません。 実践者にとって、哲学(論理)は、山に落ちている石ころと大差ありません。 それは瞑想も同じです。 山賊を打ち負かすための、手段の1つでしかありません。 問題はそれが相手に効果的にダメージを与えられるかどうかであり、歴史上有効だったものは使い、効果がないと言われたものは使いません。 ですから、仏教を例に挙げても一見仏教と全く関係ないような哲学・実践体系が次々に生み出されていきます。 使えるものは何でも使う。 これがインドでの哲学の立ち位置といえるでしょう。 逆にその彼らの必死さが理解できないと肝心なところを捉え損なります。 そのためには自らが何を求めて哲学に触れるかが重要になります。 私個人は仏教徒ですが、坐禅や日常生活などの仏教実践をする上でインド哲学は非常に役に立ちました。 実践者が抱く疑問に対して、1人の指導者や1つの組織がすべてを答えられるはずはなく、自分の疑問の解消が全く別の分野に落ちていることもある. ここまでインド哲学の流れを簡単に見ましたが、頑張って作った哲学もこの後はまた反対勢力が登場し、議論に議論を重ねることになります。 (そこには仏教徒の姿もあり「形而上学的な議論の前に、自らの毒矢(苦)を抜きなさい」と教えを説いたお釈迦さんも驚くと思われます) 上記でみた議論の根底には、インド人の「ヴェーダ聖典は絶対に正しい」というある種のこだわりがあります。 その文脈から離れてみれば、流出と自己の矛盾とか、二元論だろうが一元論だろうが、どうでもいいように見えるかもしれません。 前回指摘したとおり、実践者からすれば哲学は手段であって真理そのものではありません。 よく言われる比喩ですが、言葉を用いた哲学は地図のようなものです。 地図投影法に例えると、地表面を紙の地図に表現した際には、必ず距離、面積、角度、方位に歪みが生じます。(モルワイデ図法やメルカトル図法などありましたよね) つまり三次元のものを二次元で表現しようとすると無理が生じるわけです。 哲学もこれと同じで、もともと言葉で表現できないものを言葉で表現しようとすると、歪みができます。 「自己は世界関与していない存在」と紙にいくら書いたって、それは本当の意味では伝わりません。 しかし、「完璧な地図が存在しないこと=地図は必要ない」と考える人はいないでしょう。 それは哲学も同じで「完璧な哲学が存在しないこと=哲学は必要ない」ということは言えません。 旅に出るときには地図と共に出かけるように、実践という旅には哲学という地図が必要です。 インド哲学において大事なことは、その哲学が常に正しいか・間違っているかではなく、目的に応じて哲学を使い分けることです。 ですから一元論が正しくて二元論が間違っているのではないですし、世界が流出したということが間違っていて、世界を幻影のように見るのが正しいというわけではありません。(それらの逆もしかり) 宗教的実践と哲学が密接に結びついたインドでは、哲学は自らの実践と直結しています。 仏教も含めたインドの哲学は、やはりそこに書かれている実践をしてこそ本当の面白さがわかるというものです。 地図が道を示していても、歩かなければ実際の風景を見ることはできません。 ですので実践の前の下見として「自分に合いそうな地図」を探すことをおすすめします。 もしかしたらその地図には「お前の考えている目的地.

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